心配ではなく心を配る。信じる力が与えるもの
- Harumi Nakahara
- 2017年9月8日
- 読了時間: 2分
大切な人が病と向き合っています。
私は病と戦うとい言葉使わない様にしているます。 それは病すらも自分の身体心の声だから、自分と戦うのではなく自分の身体が一生懸命何か声を出している事に、耳を傾けて向き合って行くことの大切さを思うからです
友人も決して戦っておらず真摯に身体の声と向き合っている。
友人は沢山の人愛されているので、多くの人が心配だと言って、眉をひそめお顔を曇らせて私に様子を尋ねて来ます。

亡くなった妹の時もそうした人が多かったのですが、私達家族は常に妹の周りを笑顔愛で満たしていたかったし、そうする事がきっと暴走する病にも良い結果をもたらすと信じていたから、笑顔で「心配ではなくて、信じて祈っていてください」とお願いしたものでした。 心配は、本来の意味は、心を配る
なのに、人は心配という感情に、相手のマイナスイメージを乗せてしまいがち、悪いことが起きるんじゃないか、うまくいかないんじゃないか。
病と向き合うときだけじゃなく、子どもが育っていく時、大きなチャレンジに向かっていく時も、同じように、「心配」して、しまう。失敗を想像して、悪いことになるんじゃないか、危なくないか‥。
それよりも、
祈ろう、信じよう、心配は心配りにしよう。
見放すわけでも、楽観するわけでもなく、いつも心にとどめつつ、折に触れて、その生命の尊さを信じ祈る。どんな事が起きたとしても、それは、貴方の成長に必要な事で、貴方の人生のキラキラ光る尊い経験。 それが、たとえ病だろうと。 そして、たとえ病と向かう友人がこの世を去る時が来てしまっても、
たとえ、子どもたちが苦難の道を歩いたとしても
「ほら、だから言ったでしょ、心配したとおりだ」と思うのではなくて 死すらも、苦難すらも、貴方の人生の一つの区切りであり、一つの谷であり、まだまだ、貴方の魂は前へ前へと進んでいる。
そんな風に、いつまでも、共に生き続きたい。 5年前、妹と、大事な山形の友人が、病と向き合った末、旅立って行った。
悲しみは、心を大きく揺さぶり、生きていく自分にはぽっかりと穴が空いたように感じた日々もあったけれど
いつしか、二人は私の中で共に生き、生きていた時以上に身近に共に生きている。 今、病と生命に向き合っている友人にも、同じように心を配り、生命の奇跡を祈り、その輝きが少しでも長く続く事を信じている。

心配するよりも、信じよう。祈ろう。心を配り、愛を送ろう。
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